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自己紹介 と プロジェクトを思い立ったきっかけ

 私は広告業界のマーケティングプランナーをしています。神奈川県相模原市に、自宅兼会社があります。

 相模原は、神奈川県の西北部・東京都心から40キロほど離れた郊外都市です。神奈川県なのに海から遠く離れているので、横浜や湘南のようなおしゃれな気分はまったくありません。昨年、政令指定都市になったとはいえ、個性の希薄な新興ベッドタウン&郊外工業団地都市です。郊外なのにさほど自然に恵まれているわけでもありません。相模原に広告の大きな仕事などはありませんので、仕事は日々、都内の広告会社に出かけて仕事をしています。私が初めに就職した会社が、今のおもな仕事先です。

1985年、バブル経済スタートの年に、広告代理店に入社しました。東京に生まれ、東京の大学を出て、ほとんどの新入社員が東京に配属される、ということで、その会社を選んだのですが・・・縁もゆかりもなかった大阪支社に配属され、コピーライターとして仕事を始めました。
1987年、高校の同級生で、相模原で働いていた妻と、別居したまま、籍を入れました。
1988年 妻が長男を出産するのを機に、なぜか私が退職して、相模原に戻ってきました。在社当時にいくどか仕事をしたことのある、青山にあるマーケティング会社の社長さんに拾われて、辞めた広告代理店の東京本社との仕事を世話をしてもらうようになりました。
1990年、仕事が軌道に乗ってきたので、自分の会社を立ち上げた、といっても、個人で仕事をしているのを株式会社の形にしただけで、その後20年たちますが、いまだに従業員は私と妻の二人だけです。


 およそ無個性な相模原に住みはじめたのは、大阪の会社をやめたとき、妻が相模原に住んでいたからです。選択の余地はなかったのです。そこに私が転がり込み、子供が生まれ、幼稚園に通うようになり、また子供が生まれ、次々子供が生まれては幼稚園に入ったり小学校に入ったりしているうちに身動きがとれなくなり、結局22年間相模原に住み続けています。

 会社は大きくならず、妻と二人だけですが、かわりに子供はたくさん生まれ、長男22歳大学五年生を筆頭に、20歳大学生男 17歳高校生男 14歳中学生女 12歳中学生男 6歳小学生男の六人の子供がいます。

 会社の名前はウォーター・プラネットといいます。当時流行ったライアルワトソンの写真集から拝借しました。環境を意識したような名前ですが、仕事内容は、ごく普通のマス広告マス・マーケティングです。自動車・電気機器・通信サービスなどメカものと、飲料・食品の仕事をメインに、金融から交通鉄道など、およそあらゆる業種の新商品新サービスについて、よく言えば、「新しい生活スタイルを提案」、悪く言えば「つぎつぎに欲望を煽り」続けて20年を超えました。

 もし、今回の震災と、それに続く原発事故が起きなければ、きっとそんな調子であと10年くらい仕事を続け、自分の仕事の意味など深く考えることもなく、平和にリタイアしたのだと思います。

 しかし、3月11日。震災と、そして、原発事故が起きてしまいました。
震災当日は帰宅難民になったものの、相模原は震源からは300キロ以上、福嶋の原発からも250キロくらい離れていますから、家にも家族にも被害はありませんでした。20キロほどの道のりを歩いて自宅に戻った後は、私はぼんやりとテレビを見続けている、典型的な首都圏の傍観者だったのです。仕事仲間の中には、すぐに行動を起こし、被災者支援のプロジェクトを立ち上げたり、被災者を応援する広告の企画に走りまわったりする人がいましたが、私はただただテレビとネットを眺めて数日を過ごしました。
 
 そして、原発の水素爆発、新宿の空間放射線量が跳ね上がった時、私が考えたことは、6歳の息子を放射性物質から守ることだけでした。私はチェルノブイリ事故当時、反原発運動に興味があり、関係本を読み漁った経験がありますから、「原発が大爆発を起こす」などと思ったわけではもちろんありません。放射性ヨウ素による内部被ばくによる、6歳はじめ、12歳四男、14歳長女の晩発性甲状腺ガンのリスクを危惧したのです。都内に住み込みで働いている長男は残るということだったので、それ以外の五人の子供と妻を車に乗せ、3月17日、私は関西に逃げました。もしかすると、もう首都圏には戻らないかもしれないと、貴重品もすべて詰め込んで、車を走らせました。3月23日に四男の小学校の卒業式があり、私たち家族は相模原に戻りました。そして、仕事にも復帰し、「本当に子供の将来に対して、正しい選択なのか」という迷い逡巡後悔は残しつつ、日常に回帰していったのです。

 本当に正しい選択なのか、という迷いとともに、私の心の中にあったのは、チェルノブイリ当時、反原発が正しいと確信していたのに、これまで20年以上も、ひとつも具体的意思表明や行動をしてこなかった自分への後悔でした。当時、ブルーハーツと佐野元春が大好きで、反原発の歌を日々歌っていたのに。結局自分は何もしなかった。

 今回は、何もしないですませるわけにはいかない。 何か、具体的にやらなければ。とはいえ、いままでの、「若者の反発」みたいなパワーだけに頼るのは、きっと「善戦空しく大人にしてやられる」になりそうだ。そもそも、もう、オレ、若者じゃないし。オレ、もう、おじさんだし。
 そして、私が考えたことは、脱原発をできるだけ早く、実効性をもって推し進めるためにできることを探そう。本当に実現するために、いちばん有効なことをやろう。自分の立場能力に基づいて、いちばん具体的な力になることをしよう。

 実行性を考えた時、私は、脱原発の運動を、既存の左翼&市民運動の流れに乗って表明参加することには、すごく抵抗がありました。こういう事態に立ち至っても、やはり私は、資本主義の根本原理である「人の欲望だけが、具体的に世の中の進歩をドライブさせる」ということへの確信がありました。脱原発=反大資本、という文脈になった瞬間に、この運動は実効性をもたないと思ったのです。個人レベルでも、「欲望や消費の快楽を批判すること」に立脚した脱原発は、実効性をもたない、と思ったのです。

 原発推進派の「電気を使った便利で快適な生活をしている人間に反原発を唱える資格はない」という卑怯な恫喝には、絶対負けたくないと思うと同時に、反原発の人たちの「欲望追及のライフスタイルと決別して、節約我慢しつつ自然回帰したライフスタイルに転換しよう」という主張にも、すぐには賛成できないのです。脱原発が、おしゃれでぜいたくな新しいライフスタイルであってなぜ悪いのだろう。脱原発が、原発推進以上にたくさんの消費活動を喚起するものであって、なぜ悪いのだろう。脱原発で、原発以外で作った電気を、気兼ねなくどんどん使う生活を追及して何がいけないのだろう。

 電気を使う=電力会社から電気を買う=原発の電気を買う、という構図は、今の電力会社政府の原発推進のための各種規制が生んだ、きわめて不自然な状況によってうみだされて「思い込み」です。自分で電気を作って、自分で電気を使う自由を取り戻せばいいだけです。そこに、二酸化炭素排出の制限をかけるのは別にかまわないと思いますが。個人が多様な方法で発電する自由を、まずは取り戻すべきです。コストインセンティブをつけようと、売電を前提にすると、どうしても電力会社保護的なさまざまな規制がかかります。そこの調整をしていくには、政治力学の転換含め、時間がかかります。

 それよりも、もっと早く、具体的に私にできることはないか。

 電力会社とオール電化契約をしようとすると、ガス契約を切ってしまわなければなりません。ガス会社と契約をしていない人、というのが、世の中に100万世帯くらい、いるわけです。ガス契約なしでも人は生活できるのです。(今は一時的にひどく不便になっているようですが。)ところが、なんとなく、電力会社と契約しないと、人はまともな生活はできない、という感覚が、ほとんどすべての人にあると思います。本当でしょうか。

 きっと今の仕組みだと本当なんでしょう。

 でも、自前で発電施設をもっている大きな会社というのは、電力会社から電気を買っていないところ、というのが結構あるはずです。森ビルなんて、今回の電力不足で、東電に電気を売ってあげていたはずです。個人だって、森ビルさんみたいに、小さいながらなれないかしら。個人はちっぽけで非力な存在だから、電力会社から電気を買わないと生きていけない、という思い込みを、なんとか突破したい。ガスタービン発電、燃料電池発電、ガソリン発電機など化石燃料系の自家発電システムと、風力・太陽光・条件が許すなら小水力やバイオマスも含め発電を複数分散化して、その上で、蓄電を、蓄電池と電気自動車を併用して行うことで、人は、「最低限の、ではない、結構享楽的文化的生活」が送れるのではないかしら。 

 バブル時代を経験し、外車に乗って、郊外に戸建てを立てて住んでいるおしゃれで高学歴な奥様が、子供を有名私立に入れたり、有機栽培無農薬の食べ物にこだわるのと同じような気合いの入れ方で、「うちの電気の脱原発化」をしたくなるようにできないか。「**さんちは、風力を二本にふやしたね」「あちらはガスも燃料電池とタービンのダブル発電なのよ、うらやましいわ」「あそこのうち、まだ原発の電気を買っているのよ、いやあねえ」とならないだろうか。
 
 そうなったら、今度は都心のおしゃれマンションに住んでいる、高学歴高収入の奥様達が、「太陽光や燃料電池は、戸建て用のシステムばかりで、マンション用のものがないなんてひどいわ。うちのマンションもはやく、脱原発電気にならないと、学校の父母会役員会で、恰好が悪くてしかたがないわ」となっていく。

 脱原発電気をどう実現するかが、お金持ちちょっとリベラル消費者のステータスをかけた高級消費の主戦場になる。

 そうすると「貧乏人は原発電気で我慢しろというのか」「低所得者にも作れる買える脱原発電気を」という運動が巻き起こる。「カジュアル脱原発電気」「脱原発電気のユニクロ化」が起きる。これくらいのフェイズまでくると、社会システム転換がすすまないと対応できないはずだが。非営利NGO的発電組織。コミュニティ町内会発電所。マンション自治会向け発電システム。こういうものがどんどん広がっていく。

 初期的段階では、「外車を買う金があったら、脱原発自立発電システムを導入する」という富裕&リベラル層の消費行動を喚起するような解決策からスタートするのがいいのではないか。

 それを、うちは別に外車にも乗っていないし、6人の学費と住宅ローンで火の車だけれど、「ウォーター・プラネット」の名に恥じない、環境ビジネスに乗り出す投資として、我が家のいろいろ発電化に挑戦してみよう。きっと、やってみると、制度的にも、技術的にもいろんなハードルがあって、そう簡単にはうまくいかないだろう。でも、挑戦してみれば、どこにボトルネックがあるかが、はっきりするだろう。そうしたら、それを解決できる能力のある人、会社に相談しに行けばよい。

 反原発、というと、政治運動になってしまうけれど、個人レベルの脱・原発で作った電気、というのは、新しい消費&生活スタイルの創造だ。これなら、今まで私がやってきた仕事のノウハウを使いながら進められる。

 というわけで、このプロジェクトはスタートしました。進展状況をこのブログで報告していきたいと思います。
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